自分を知るツールとしての英語

英語学習のゴールは、何だろう?
英語教室を開いて、このことを考えるようになりました。

コミュニケーションツールとしての英語は、世間でもよく言われますね。

外国の方と問題なくお話ができること。仕事やプロジェクトで行動する時のコミュニケーションツールですね。これはその通りだと思います。

文化・情報に触れるためのツールも、その通りだと思います。

例えば英語が読めるようになって、英語で書かれた文献などが読めて、新しい考え方を知ること。これも、その通りだと思います。

私には、このほかにどうしても別の使い方があるように思えてならないのです。それは

感情に左右されず、自分を客観的に表現するためのツール です。

私は、英語教室を開くことは、これまでの自分に対する「挑戦」で、とてもハードルが高いことでした。

「今まで会社勤めをしてきて、留学をしたこともなく、教育学部卒でもない私に、英語教室なんて開けるのか?」

日本語では、いつもこんなことを考えていました。

この言葉の裏には「会社勤め」「留学」「教育学部」という言葉にプレッシャーを感じたり、過度に心配している様子がうかがえます。

しかし、英語教室を開くことを英語で考えてみました。このような言葉が浮かんできました。

Question: How do you think about opening your private English class?

English which I have learned for about 30 years is not only a study but the important thing I dedicated most of my life. Therefore, I can provide something from bottom of my heart to my future customer.
(約30年間学んだ英語は、単なる勉強ではなく、私の人生の大半を捧げた大切なものです。そのため、未来のお客様に心からの何かを提供することができます。)

同じ人物からの言葉か?というくらい前向き(笑)
ですので、英語教室オープンのことを考えるときは、英語で考えるようにしました。

English is my second language. I did not grow up in an English-speaking country, but I have learned and practiced its grammar, vocabulary, and pronunciation. Therefore, I can express myself in the range of my English vocabularies. However, why should I bear so much responsibility if communication doesn’t go well? I think that communication is a harmony created by both parties.
(英語は私の第二言語です。私は英語圏の国で育ったわけではありませんが、文法や語彙、発音を学び、練習してきました。そのため、自分の英語の語彙の範囲で自分を表現することができます。しかし、もしコミュニケーションがうまくいかないときに、なぜ私がそんなに多くの責任を負わなければならないのでしょうか?コミュニケーションは、双方によって作り上げられる調和だと思います。)

不思議ですね。日本語だと出ないのですが、英語だとこんな言葉がどんどん出てきます。(日本語だと小生意気に聞こえるでしょうか。)

私は言語学は全くわかりませんが、日本語では「役割言語」みたいなものがあって、それに則して話をしているのかと思います。しかし、英語ではだれにも邪魔されない気持ちの部分がむき出しで出てきます。大きな子供がしゃべっている感じでもありますね。

このような自分の体験から、英語を学ぶことは、自分の気持ちの探求に役立つと思っています。

私の英語教室の学習者様には、文法・語彙・音読・英作文などたくさんの作業を通して、ご自身の気持ちを表現する言葉をたくさん覚えてほしいと思っています。

あれ?私ってこんなことも考えているの?という自分に気づいたり、新しい考えに気づいたり、ご自身の内面を映し出す道具として、英語を使っていただきたいなと思っています。

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